うにたこの深海日記

うにたこの深海日記

ひまつぶしの場所に深海はいかが?好きなものを垂れ流すブログ。あなたの好きといくつ繋がれるかな?

生まレ出ヅるハ過コとミ来

 境界のない、ただ白い空間に白い椅子と机が添えられている、およそ部屋とは呼べないここに私は存在している。ここにあるのは私。それがここの唯一の定義だったのだ。最近までは。近頃この机には何かが訪れることがある。それらは決まって似たような形をしている。「卵」だ。一般に認識されている卵という概念には自我など存在しないはずだが、ここに来る「卵」は往々にして私との交信を図るのだ。卵に会話能力など備わっているはずはないのだが、なんとも理解しがたい現象である。だが、私の理解などよそに、私はここで起こりうる現象をただ処理することしかできない。それが私なのだ。

 今、ここに新たな卵が来たばかりである。だが今までの卵とはその様相が少し違う。これは、そう、耳だ。まるで子犬のような小さな耳が卵から飛び出している。このような卵がこれまでに来たことがあっただろうか。これまでとは何かが違うとでもいうのだろうか。

 「こんにちは!わんこだよ!」

 卵が交信を図ってきた。母に甘えるが如く小刻みに耳と身体を揺らし続けるその様は、私に返答を求めていると解釈できる。

 「わんこ…とは、君の名前かな。」

 「そうだよ。わんこはね、わんこなんだよ!」

 それは自らを犬という種別に分類しているということなのか、あるいは単なる固有名詞に過ぎないのか。私には判別がつかなかった。私とて全知ではない。ただこの世界の概念を幾分か蓄積しているに過ぎないのだから、その範疇を超えるものは新たに定義しない限りは「未知」なのである。ここにくる卵はまさにその典型、このわんことて例外ではない。

 「…ねえ?なにかいってよぉ。」

 随分と長く自問に沈んでいたようだ。たどたどしい喋りを私に運んだわんこは、退屈を示すかのように耳を垂れ下げている。

 「ねえ、ここはどこなの?」

 「ここは何処でもないし、何処でもある。君が認識する【ここ】こそが『ここ』なのさ。」

 「?…じゃあ、あなたはだれ?」

 「私は誰でもないし、誰でもある。」

 「んー?わんこ、むずかしいはなしはよくわかんないよ。」

 無理もない。何せ私自身が私を認識できていないのだ。私に蓄積されたどの概念を組み合わせても「私」が出来上がらない。私は今、私という概念に過ぎないのだ。私はただその事象に従事するのみである。

 「じゃあね、わんこはどうしてここにきたの」

 「どうして…か。それは私には分からない。だが、君のこれまでに起因しているのではないかな。きみが卵に、わんこになるまで…君は何者だったのか。それが答えではないだろうか。」

 少なくとも、これまでの卵はそうだったのだ。それはつまり前世。それが卵になった理由であり、それを見つけた卵はどこかへ去っていった。このわんことて、きっとそうなのだろう。ただ、それを私が見つけることはできない。以前に来た卵はただひたすらに「かぼちゃプリン」なるものについて熱弁したと思えば旅立っていったのだから。

 「わんこ…ぜんせ?わんこはわんこだよ?」

 自らの前世を認識していない。これは今までになかった事だ。これまでの卵は何れも自らの前世を把握し、それに基づいた理由と共に旅立っていったのだ。とすれば、このわんこはここから旅立つことができないのか。あるいは…。このわんこという存在は、やはりこれまでの卵とは少々異なるようだ。

 わんこはきょろきょろと辺りを見回す、かのようにその身体を回転させる。私への興味が薄れ、意識が分散したのだろう。とは言え、ここはただの白い空間。興味を向けられるようなものもない。その証拠に、耳が垂れ下がっている。耳が垂れ下がると退屈のサインであるというのは理解できた。

 しかし不思議だ。なぜ私はこのわんこについてここまで思考を巡らせているのだろう。これは興味なのか?それとも、未知を既知にするためのただの作業なのか。これまでの卵に対してはこんなことはなかった。その違いは何か。そうだ、その存在を定義できたかどうか。これまでの卵は自らを知り、定義できていた。だがわんこは違う。前世を認識せず、自らを判別する手段は「わんこ」という自称のみ。ではなぜ私はわんこを定義しようとする。この行動に該当する概念はなんだ。これは、欲求?「知りたい」?知識?私という存在はもしかすると。

 ふとわんこへ意識を向けると、楕円の軸は横たわり、先までの活気は静寂と変貌しそこに横たわっていた。これは、寝ているのだろうか。かすかに寝息が聞こえる。呼吸器などないのに寝息が聞こえるなど、つくづく奇怪だ。わんこ、君は一体何者なのか。その答えは、私が何者かという問いに「私」以外の解答をもたらしてくれるのかもしれない。

 

 しばらく経ってわんこの身体が起き上がる。わんこは次に何を言う。私はもうわんこの次の言葉を知りたくて仕方なかった。その一つ一つに私が何者か、その正解に近づける何かがある気がしてならなかったのだ。私が根拠のない推論に縋るなど、もはやただ事ではない。それでも私はわんこの言葉を欲しているのだ。

 しかし、予想とは裏腹にわんこは先ほどの活気を取り戻すことはなく細々と語り始めたのだ。

 「わんこね、ゆめをみてたんだ。」

 夢。よもやこの場所で夢をみる者が現れようとは。しかし、私の意識はもはやわんこの言葉にしかない。それがこの場所の摂理から逸脱していることなど、もはやどうでもよかった。

 「わんこね。ゆめのなかで、たくさんのひととあったよ。わんこそこでね、おてんきのおはなししたりね、こたつで、ぬくぬくーってしたり。でね、それでね…。」

 「わんこ。それって、君の前世に関する何かなんじゃないかな。よく思い出してくれ。それは私にとっても重要なのだ。」

 「わんこはね、わんこは…わんこはなにをかんがえていたんだっけ?」

 夢とはそういうものだ。起きてしまえば今まで見ていた世界が霧散し、必死に掴もうとするたびに煙を払うが如く散ってしまう。それでも私は落胆を表さざるを得なかった。私が、落胆か。私はもはや私ではない。そういった感覚に陥らざるを得なかったのだ。今や自己の認識が歪み始めている。私の事を最も知らないのは私なのかもしれない。

 大丈夫?わんこが小さな声で私に問いかける。ようやく気が付いた。自問に耽るどころか思考が漏れ出していたようだ。驚嘆と困惑に囚われた私を気にかけてか、深く息をついてわんこが語り掛ける。

 「あのね、わんこ、あなたがなにものなのかよくわかんない。でもね、ここでおはなししたあなたがあなたなんじゃないかな。それだけで、いいんじゃないかな。」

 「しかし」

 「あのね、だからね、あなたがあなたをしるために、わんこのことをしりたがっているみたいだけど、わんこはわんこなんだよ。わんこ、ときどきおもうんだ。きっと、わんこがしらないわんこが、いたんだろうなって。でもね、わんこはいまわんこでいるから、わんこなんだよ。それでいいんだよ。だからあなたも、いまあなたでいるのだから、あなたはあなた。それじゃ、だめなの?」

 私は私。それは私自身がずっと私をそう認識してきた言葉。だがそれは答えが見つからないがための概念なのだと、私は信じて疑わなかった。だが違ったのだろうか。それ自体が答えだったとでも言うのか。もはや私の思考は混沌そのものと化している。そこに秩序をもたらすものは何か。もう私には何も分からない。だからこそ、私はもうわんこにそれを委ねるしかないのだ。

 「わんこ、いくね。」

 際限のない狼狽に追い打ちをかける一発の弾丸が私を貫いた。なぜだ。なぜ今行ってしまうのだ。私はまだ何も分かっていない。まだわんこに居てもらわなければならない。いやそもそも、なぜ行けるのだ。今までの卵は自らの出自と自己理解によってここを発ったのだ。それを持たないわんこがなぜ発てる。

 いや、違う。自己理解ならできていたではないか。わんこはわんこ。それを自己とするなら、あるいは。

 「わんこ、私は」

 そこに残されたのは閑寂の置き土産。私の思考は停止した。それは一瞬の出来事。しかしその刹那は私にとって悠久に等しい。あと一つ。あと一つで辿り着いたはずなのに。

 「待っ」

 その言葉と共に出たのは反射。思わず椅子から立ち上がる。だが束の間、私は強烈な違和感を覚える。立ち上がるとはなんだ。私に肉体という概念はない。だが私は立ち上がったのだ。視線を下に向けるとそこには確かに2つの脚があったのだ。そして視線を向けるための目があることも自覚させられる。何だ。何が起きた。

 

 私は視線を上げる。そこはもう私がいた世界ではなかった。そこにあったのは壁。複数の木板から作られた壁。境界のない世界にいたはずなのに、ここには境界がある。空間に添えられていた机と椅子は木製の物へと変わり、そこに佇む。そして、光を感じたのだ。それは、窓。窓から差し込むのは太陽の光。間違いない。これは空間などではない。部屋だ。私は難なく身体を動かせることへの疑念を一切持つことはなく、窓の外を眺めた。

 窓の外には草原が広がる。そこをハミング混じりに元気に駆ける一人の少女がいた。私は彼女を知らない、はずなのに彼女を知っている気がしてならない。私は部屋を出た。

 

 ドアを閉めた。その瞬間、私は何か、とても多くを忘れたような感覚を覚えた。私は彼女をどこかで見たような気がする。それを思い出すのは夢のように霧散するものを掴むことに等しい。だが、夢というにはそれはあまりにも確信めいていた。私には分からない。私は何も知らない。だから彼女に会いに行く。

 世界は、世界の中の沢山の世界で構成されている。それぞれの世界は境界で隔てられ、境界の外からは何も見えない。私という存在も、私という境界で隔てられた一つの世界なのだ。そして、今目の前にいる彼女も。子犬のような愛嬌のある表情をこちらに向ける。私は彼女を知っていた気がする。だが彼女の世界を何も知らない。

 

 だからこそ私は、「心」から願うのだ。

 

 君を知りたいと。